即決が肝心です。

昨日、一昨日とシャルマン火打の動画をアップしたりして、ちょっと懐かしい気分になりましたので。

今日は私の山籠もり人生なんぞを語ってみようかと思ったのでザっと記しておきます。

 

まず、

高校生の時に初めてスノーボードをしましたが、本格的にのめり込んだのは高校卒業してから。

私は高卒で、就職も進学も一切せずにいきなりフリーターでした。

その点については色々事情があるんですけど、今日は割愛しておきます。

高校は新潟の高校に通っていたので、当初の予定では卒業したら神奈川に帰る予定だったんですけど。

スノーボードにハマった事もあり、そのまま新潟市内でアルバイトをしながらスノーボードをしていました。

ただ、そのうち通いで滑り行くのもだんだん面倒になり。

「もっとスノーボードしたい」と、思って。

確か自分の成人式後位だったと思うんですよね。

それまでやっていた仕事を辞めスノーボードに没頭する事を決意。

しかし、

当時はインターネットも普及してないし、とにかく情報が無くスキー場で仕事をするなんて頭も無かったので、いったい何をどうしていいやら。

それでまず思いついたのが。

「スキー場の近くで車泊てして毎日滑ればいいじゃん」という発想。

早速、車に布団を積込み車泊する準備とスノーボード道具を持って最初に行ったのが「上越国際スキー場」

今でもそうですけど、当時からハーフパイプもあったしキッカーもあったし。

当時はスノーボードのフリースタイルと言えば「ハーフパイプ」って感じでみんな練習していましたから。

当然のように私もハーフパイプメインでキッカーをひたすら練習してました。

それで、上越国際の美奈駐車場という日帰り無料駐車場で寝泊まりしながら。

3~4日滑ったら一度家に帰って洗濯したりして、またスキー場へ行って3~4日滑ってという生活を1ケ月ほど続けてまして。

だから何気に今シーズンの関東地区大会はすごく思い出深い大会だったんですよね。

20年以上前に滑ってたハーフパイプだし。

 

それで、そんな生活をしている時に。

2月の終わりか、3月の始め頃だったと思うんですけど。

神奈川の友達が滑りに来るというので一緒に滑ろうって話しになり。

さすがに車泊ってわけにも行かないから、友達と泊まった宿が苗場の浅貝ゲレンデ内にある

『ホテル苗場ホワイトパレス』

と言うか、このブログ書くために今久ぶりに調べましたけど、まだ営業してるんですね。

こう言っては失礼ですけど、浅貝ゲレンデが無くなったのでもうホテルも営業してないかと思いました。

とにかく、ここのホテルに友達と2泊ほどしたのかな。

最近の方には馴染みが無いと思いますが、20年位前だと「スノーボード禁止」ってゲレンデがまだ結構あったんですよ。

それこそ石打丸山スキー場は全面禁止でスノーボーダーは入れなかったしね。

そんな頃なので、この時はまだ苗場スキー場は端っこの1コースくらいしかスノーボードの滑走がダメで、スノーボーダーは基本浅貝ゲレンデで滑ってました。

それで、

これが今だに不思議なんですけど。

宿泊している時にそこのホテルのオーナーから「うちで働かないか」って、声をかけられまして。

だって、当時はスノーボードも全盛期でホテルも満室位の状態だし、毎日沢山のお客さんがいたにも関わらずなぜ私に声をかけて来たんだろうって??

後で聞いた話しでは。

どうやら人手が足りなくてアルバイトを探していたけど、できればホテルのサービスで初心者の人にレッスンというか、引率してあげれるような人が良かったって事で。

そうゆう人を探すために、時間があればゲレンデで滑ってる人を見ていたみたいで。

それで、私の滑っている姿を見て声をかけてくれたようです。

そりゃーもちろん車泊生活をしていた私にとっては願ったり叶ったりの話しだったので、もう即答ですよ。

準備だってできてるし、もうその翌日からホテルに住まわせてもらい働き初め、ゲレンデがクローズするまでは、そこのホテルで働きながら浅貝ゲレンデで毎日滑ってました。

ご存じの方もいると思いますが、昔し浅貝ゲレンデと言えばスノーボーダーの聖地的な存在で、ハーフパイプもパークもあって大会なんかも開催されるようなゲレンデでしたから。

働くのを決めた理由はそこにもあります。

それにしても先ほどホテルのホームページ見たけど、本当に懐かしい。

なんと言っても初めてスキー場で働いた思い出のホテルですからね。

私は通常のホテル業務に加え、先ほど言ったような初心者の方で希望者がいれば午前中の清掃やベットメイクの仕事を免除されお客さんとゲレンデで一緒に滑るというなんとも贅沢な役割を任せられ非常に楽しく仕事をする事ができました。

しかし、そんな楽しい生活も3月末までだったかな?

私が働き初めて1ケ月ほどでゲレンデがクローズ。

そうなればホテルも休業になるので、私の浅貝生活もそこまで。

さて、今度はどうしようかなと。

それで次に向かったのが妙高の「ARAIスキー場」

最近ゲレンデが復活して話題になっているあそこです。

ARAIスキー場も当時からハーフパイプがあったので、とにかくハーフパイプが滑れるゲレンデを求め妙高へ移動。

ただ、ARAIスキー場で滑るのはいいけど。

問題はリフト代+ハーフパイプ滑走に500円だったかな?

結構お金がかかるので毎日滑るのはきついぞ、なんて思っていたところ。

ここで運命的な事が。

今思えば私の人生を変えたターニングポイントって言っても過言じゃないでしょう。

それは、

ARAIスキー場のゴンドラに乗っていると、一緒に乗り合わせた人達が。

「なんかシャルマン火打ってスキー場がオープンしたらしいよ」

「しかもハーフパイプあるらしいよ」

なんて会話をしているのを耳にしたんです。

私は1人だったし、相変わらず車泊で自由に動いていたので「へぇ~、じゃあ明日行ってみよう」と心の中で思い。

、翌日にはシャルマン火打スキー場へ。

今でもシャルマン火打行くのに山道が嫌だなんて言う人も聞きますが。

この時は今とは比べ物にならない位に道路が整備されてなく、バスは上がれなかったですからね。

それくらい道幅も狭く乗用車でも1台しか通れない所も何カ所かあったりと。

「本当にこんなとこにスキー場あるのか?」と半信半疑で、上がって行くと。

これまたビックリしたのが、雪崩れてて道路が塞がってるんですよ。

ますます「本当にスキー場あるのかよ」

と、そんな思いを抱きつつも、車に積んであるスコップで雪をかき分け進んだのがあまりにも衝撃過ぎて今だによく覚えています。

それでなんとかスキー場についたはいいけど、人はほとんどいないし。

ゲレンデもどこがコースなんだか、どこまで滑っていいのかわからないし。

それで噂のハーフパイプも見つけたけど、当時でもビックリする位の雪を2列盛っただけ?

みたいな、とてもハーフパイプと言えるようなものでもなかったし。

なんかもうとんでもないところだなというのが第一印象。

でもね、

センターハウスをウロウロしていると。

「スクールのアルバイト募集」って張り紙は貼ってあるんですよ。

それで仕事内容が「パーク整備」って書いてあって。

要するに今で言う、ディガーってやつですね。

その時にディガーって言葉があったのか、私が知らなかったのか。

とにかく、パークを管理するアルバイトを募集してますって書いてあったので。

何にせよ、寮もあって毎日滑れるならいいでしょ、って思って。

その場ですぐにスキー場の人に頼んで、簡単な面接をしてその場で即採用決定

これまたすぐに寮に入って働き始めたというわけです。

当時はあまりディガーっていう仕事が確立していなかったのもあり、スクールとディガーを掛け持ちって感じで。

スクールのみんなでパークを整備して、レッスンが入ればレッスンをするみたいな。

そんな生活をGW終了まで1ケ月ほどして、初めての山籠もりシーズンが終了。

そのまま、

「じゃあ来年も」

という事で、そこから毎年シャルマン火打スキー場で働いていた。

これが私の山籠もり人生の始まりでした。

 

こうやって自分で振り返ってみても、この頃は今こうしてスノーボードの仕事をするなんてまったく想像してなかったけど。

とにかく楽しく色々やらせてもらっています。

だからね、

この山籠もり人生1年目の教訓が今だに自分の中では大事にしていて。

まだ全然偉そうな事言えませんけど。

好きでやり続ければ大抵の事はできるんじゃない?って。

あまり先の事ばかり考えてないで、その時その時の判断でやりたいと思った事をやればいいんじゃないかと。

その代わり迷っちゃダメ。

即決が肝心です。

これは今でも大事にしています。

 

よし、

じゃあ明日も即決で行きましょう。

何はあるかは明日のお楽しみという事で。

それでは本日はここまで。

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